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『心臓を貫かれて』 父親について考える
ひとつの物語を語りたい。殺人の物語である。肉体の殺人であり、精神の殺人の物語である。僕の兄は罪もない人々を殺した。名前をゲーリー・ギルモアという。 「プロローグ」より。
『心臓を貫かれて』この本は、作者マイケル・ギルモアにより自らの兄の殺人と父親との関わりを綴ったノンフィクションである。 一九七六年七月ゲーリー・ギルモア当時三五歳は、アメリカ・ユタ州で二件の強盗殺人事件を起こし、死刑を宣告される。彼は減刑・死刑免除を拒否し、自ら銃殺刑を求めた。彼の処刑は、当時強い「死刑廃止世論」のため、十年近く中断されていたアメリカでの、死刑執行再開の端緒となった。マスコミは彼の死刑執行をセンセーショナルに報道し、多くの人々が彼を憎悪し、或いは賛美したりした。 しかし、この物語の主題は殺人事件にあるのではなく、残忍な殺人者を生み出した家族の愛と暴力、そして父と子のありようにある。 ゲーリーは幼い頃から常に父親に愛を求め続け、父親は常に激しい暴力でそれに報い続けた。結果、彼は他者に向けた残忍な暴力で、傷つき損なわれた自らの心を繕うことになる。 そして深い情愛と暴力の発露が、心に同じ根を持った時から、この悲劇は破滅へと向かって行く。 父と子はその血の絆故に「向かい合わざる得ない」。その向き合い方こそが「父親のありよう」なのではないだろうか。 呪われた一家の歴史を百年以上にもさかのぼり、特異で驚くべき事実に満ちたこの物語を読み終えた時、ボクはある種の無力感すら感じた。この本は、決して楽しく読めるようなものではない。 それでもボクは、この恐ろしい本を子を持つ多くのお父さんに薦めたいと思う。この物語の悲劇は、二十数年前のアメリカで起きた。けれども、機能不全家庭で育った子供(アダルトチャイルド)の悲劇は、決して遠い過去の遠い所の物語だけとは限らないのだから。
(敬)
「心臓を貫かれて」 マイケル・ギルモア 村上春樹 訳 文藝春秋社 定価2816円
付録 「心臓を貫かれて」と「死刑執行人の歌」
同じゲーリー・ギルモア事件を扱った本に、ノーマン・メイラーの有名な「死刑執行人の歌」がある。この本は1979年に発行されるや、100万部の大ベストセラーとなりその年のピュリッアー賞を受賞した。日本でも最近になって翻訳が出されている。 この分厚い本は、膨大な裁判資料やゲーリー・ギルモア始め100人以上の関係者のインタビューをもとに、事件を実にクールで綿密詳細に書き上げている。 しかし、20年近くを経て事件そのものが風化してしまった今、事件の詳細が、どれほどの意味を持っていると言えるのだろう。 「心臓を貫かれて」は1993年に執筆されている。もしも、殺人犯の肉親であり実弟であるマイケル・ギルモアのこの本が、ノーマン・メイラーの「死刑執行人の歌」と同じ時期に出版されていたとしたら、この本の本質的な意味は正当に評価されただろうか。 訳者の村上春樹は自著「ザ・フィツジェラルド・ブック」の中で「時の流れの不思議な作用によって、木が沈んで石が浮くということが起こり得る」と著している。 当時センセーショナルに扱われた事件の外殻が風化し削げ落ちたとき、事件を生み出した暗部とそこに存在する真の事実に目を向けることができるのだと思う。
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